新語時事用語辞典とは?

2011年10月21日金曜日

同時離陸

読み方:どうじりりく
英語:simultaneous take off

複数の航空機が同時に離陸すること。特に、空港で2本の滑走路から同じタイミングで2機の航空機が同時に離陸すること。

日本国内の空港には、同時離陸を行って運用できる空港がなかったが、2011年10月20日に成田空港が日本で初めて同時離陸による運行を開始した。これによって旅客機の離陸時の順番待ちなどが減り、1時間あたり10回以上、発着数を増やすことが可能になるという。

憲法審査会

読み方:けんぽうしんさかい

憲法改正の原案などを審議することを目的として設立された会議のこと。

憲法審査会は、2007年に成立した国民投票法により設置が定められているが、2011年10月21日の会合が開かれるまでの間は審議が行われていなかった。審議が行われなかった理由の1つとして、民主党内の護憲派への配慮が挙げられる。

なお、民主党が憲法審査会の審議に応じた背景には、補正予算案などの審議に自民党や公明党からの協力を得るためとの見方もある。

教員免許更新制度

読み方:きょういんめんきょこうしんせいど
別名:教員免許更新制

教職に就くための免許を定期的に更新する制度。

日本では教育職員免許法の改正を受けて2009年に導入された。10年に1度、30時間の講習を受け、試験に合格して更新手続きを行う必要がある。これにより新しい教育上の知識などを身につけさせる目的がある。

米国では教員免許更新制度を採用している州も多いが、英独仏などでは教員資格は終身有効である。

教員免許更新制度の導入と前後して政権交代が起こり、新政権の民主党は教員免許更新制度の廃止を公約したが、現実には廃止が実現できていない。そのため、近々廃止されることを見越して更新を見送っていた教員が講習を受けざるを得なくなり、混乱が生じているという。

レーティング・モニター

英語:rating monitor

信用格付け機関が、債券や債券の発行体の格付けについて臨時的に見直しを実施する制度のこと。または、格付けの見直しが行われている発行体や、発行体が発行する債券のこと。

レーティング・モニターは、企業の合併やM&Aなど、債務履行に重大な影響が出ると予想される場合に行われることが多い。

レーティング・モニターでは、その債券や債券の発行体などに付与される格付けを()を付けて表示することが多い。例えば、「AA+」なら「(AA+)」のように表示される。また、将来の方向性を示唆する文字も付与される。付与されるのは、「格上げ方向」、「格下げ方向」、「方向未定」の3種類とされる。

通貨スワップ限度額

読み方:つうかスワップげんどがく
英語:limitations of currency swaps
英語:limits of currency swaps

2国間で自国と相手国のそれぞれの通貨を交換可能にする「通貨スワップ」において、融通可能とする額の上限。通貨スワップ限度額が大きければ大きいほど、大規模な協定であるといえる。

2011年10月現在、もっぱら日本と韓国との間で合資に至った通貨スワップ協定に関して言う場合が多い。これまで日韓の通貨スワップ限度額は130億ドルだったが、10月19日の日韓首脳会談において、通貨スワップ限度額を700億ドルに引き上げることが発表された。日本円にして約5兆円に相当する。

日韓における700億ドルの通貨スワップ限度額は、1件間の時限的な措置として発効される。

円高総合対策

読み方:えんだかそうごうたいさく
別名:円高対策

2011年10月に野田佳彦・内閣において閣議決定された、企業救済策の1つ。

円高総合対策では、円高の影響によって経営が困難となった企業に対する資金繰りの支援や、企業の施設建設費への補助金の支援などを行うとされる。

円高総合対策は2011年度第3次補正予算案に計上され、その規模は23.6兆円に上るとされる。

日本政府は円高総合対策の効果として、実質GDPの0.5%上昇、雇用創出30万人を試算している。

カダフィ大佐

読み方:カダフィたいさ
別名:カダフィ
別名:ガダフィ
別名:ガダフィ大佐
別名:カッザーフィー
別名:ムアンマル・アル=カッザーフィー
別名:カダフィ・ムアンマル・ムハンマド・アブミンヤール
英語:Qadhafi
英語:Gaddafi
英語:Muammar Gaddafi

リビアの政治家。いわゆる「カダフィ政権」の元首として、1969年に政権を掌握して以来、2011年8月まで40年以上にわたって、国家の最高指導者であった。

リビアは直接民主制を標榜しているため、公的な肩書きは持たない形となっていたが、事実上カダフィ大佐がリビアの国家元首と見なされている。なお、カダフィ大佐がなぜ「大佐」の称号で呼ばれるか、その由来は諸説あって定かでない。日本では報道機関も含め「カダフィ大佐」の呼び名が定着している。

2011年2月、リビアではいわゆる「アラブの春」の流れから反カダフィ派による政権打倒の機運が強まり、リビア国民評議会を中心とする大規模な抗争が勃発した。2011年8月にリビアの首都トリポリ、サブハ、バニワリード、シルトなどが相次いで制圧され、カダフィ政権は事実上崩壊した。

政権崩壊後、カダフィ大佐の行方は分らなくなっていたが、2011年10月20日にリビア国民評議会がカダフィ大佐の発見、およびその死亡確認を発表した。遺体は25日まで民衆の前に晒された。

暫定首相

読み方:ざんていしゅしょう

首相が正式に決まるまでの間の仮の首相のこと。

暫定首相は、首相が急死した時や内乱で政局が混乱している時などに立てられることが多い。

暫定首相には、過去においては、2006年のタイクーデター時のスラユット・チュラーノン・枢密院議員、2011年のリビアのカダフィ政権崩壊時のマフムード・ジブリール・リビア国民評議会委員長などが就任している。

アラブの春

読み方:アラブのはる
別名:中東の春
英語:Arab Spring

2010年から2011年にかけて、中東・アラブ諸国において機運の高まりを見せている民主化運動。1968年チェコスロヴァキアで起きた改革「プラハの春」になぞらえた表現とされる。

アラブの春は、チュニジアで2010年12月から翌2011年1月にわたって繰り広げられた「ジャスミン革命」に端を発する。この革命によって、チュニジアで23年にわたり独裁政権を築いてきたベンアリ政権に終止符が打たれた。

チュニジアでの動きに触発され、エジプトでも大規模な反政府デモが勃発し、2011年2月にはエジプトのムバラク政権が崩壊した。

リビアでも、2011年2月以降に反カダフィ派による政権打倒の動きが激化し、2011年8月に至り事実上政権が崩壊した。カダフィ大佐は行方をくらまし、代わって「リビア国民評議会」が暫定政権となった。

ジャスミン革命、およびアラブの春は、インターネットとソーシャルメディアの存在が大きいと言われている。TwitterやFacebookを通じて市民同士のリアルタイムな連絡が行われ、また、現況が全世界に向けてじかに伝えられたとされる。

リビア国民評議会

読み方:リビアこくみんひょうぎかい
別名:リビア暫定政府
別名:リビア暫定国民評議会

北アフリカのリビアにおいて、リビア内乱の勃発とともに結成された、反カダフィ派勢力による政権。議長はムスタファ・アブドルジャリル。単に「国民評議会」と呼ばれることもある。

2011年8月にリビアの首都トリポリが陥落し、カダフィ政権が事実上の崩壊を迎えた後、リビアにおける暫定政権として機能している。世界20数ヵ国および国連、EU、NATOなどの国際組織が、6月までにリビア国民評議会がを正統な政府として承認している。

2011年10月20日、リビア国民評議会は「アルジャジーラ」を通じて、政権崩壊の後に行方をくらましていたカダフィ大佐を発見し、死亡を確認したことを伝えた。

完結出生児数

読み方:かんけつしゅっしょうじすう
読み方:かんけつしゅっせいじすう

夫婦の最終的な出生子ども数のこと。

完結出生児数は、厚生労働省の実施する出生動向基本調査の結果により公表される。

完結出生児数の調査は、結婚持続期間が15年から19年までの初婚どうしの夫婦を対象に行われる。

出生動向基本調査は1940年に第1回目が実施され、その後およそ5年ごとに行われている。2010年6月に第14回目の調査が行われ、2011年10月にその結果が公表された。その調査によれば、完結出生児数は1.96人という結果で出生動向基本調査の開始以来、初めて2人を割った。ちなみに、前回の2005年に行われた調査では、完結出生児数は2.09人だった。

関連サイト:
出生動向基本調査 - 厚生労働省

カダフィ政権

読み方:カダフィせいけん

アフリカ北部のリビアにおける、「カダフィ大佐」を事実上の最高指導者とする独裁政権。1969年以来、2011年8月に事実上の政権崩壊に至るまで、40年余年にわたる長期政権を維持し続けた。

アフリカには、ジンバブエのムガベ政権、エジプトのムバラク政権、チュニジアのベンアリ政権、といった長期独裁政権が多く存在していた。2010年にチュニジアで勃発した「ジャスミン革命」を皮切りとした民主化運動、通称「アラブの春」によって、2010年から2011年半ばにかけてこれらの独裁政権が次々と倒されていった。

カダフィ政権は中東・アラブ諸国の中でも最も長く存続している独裁政権となったが、反カダフィ派の勢力との抗争の末、8月に首都トリポリ、次いでサブハ、バニワリードと、リビアの主要都市が相次いで陥落。カダフィ政権は事実上、崩壊した。

政権崩壊後、反カダフィ派勢力は「リビア国民評議会」を暫定政権として設置。カダフィ大差は政権崩壊後に行方不明とされていたが、2011年10月20日、リビア国民評議会がアルジャジーラを通じて、カダフィ大佐が死亡したことを発表した。