読み方:りしょうばんライン
別名:平和線
別名:李ライン
別名:イ・スンマンライン
別名:이승만 라인
別名:평화선
英語:Syngman Rhee Line
1952年に韓国の大統領、李承晩が、日本海から東シナ海にかけての公海上に設定した境界線。李承晩ラインの内部における漁業資源、鉱物資源などに関する主権は、韓国政府が持つとされた。李承晩ラインの内側には日本の竹島(韓国名:独島)や、中国が領有権を主張する蘇岩礁(韓国名:離於島)も含まれたことから、それらの島々の領土問題にも影響した。なお、韓国側はこのラインを「平和線」と称している。
日本の外務省は、2014年現在、李承晩ラインを国際法に反する「違法」な境界線と捉えている。また、李承晩ラインの設定当時も、中国、米国、イギリスなどが抗議を行い、李承晩ラインを承認する国はなかった。
李承晩ラインに基づき、1952年から1965年までに3929人の日本の漁民が拿捕されたほか、第一大邦丸事件など、日本人が殺害される事件も起こった。韓国側は、拿捕した漁民の返還と引き換えに、犯罪を起こして収監されていた在日韓国・朝鮮人の放免を要求し、日本政府はそれに応じることとなった。なお、韓国は日本漁船だけでなく、中国漁船の拿捕も行った。1960年にダグラス・マッカーサーは、機密電文3470号において、李承晩ラインに基づく漁民の拘束を「残酷で野蛮な弾圧行為」として非難した。
1965年の日韓漁業協定締結に伴い、李承晩ラインは自動的に廃止されることとなった。しかし、李承晩ラインは韓国による竹島の実効支配(不法占拠)のきっかけとなったことから、2014年現在の竹島問題にも影響を残している。
韓国の建国大統領李承晩博士記念事業会は2014年1月に、「李承晩元大統領の平和線宣言62周年記念式」を開催し、李承晩ラインを「日本の誤った歴史認識に対する国民の厳しい審判」と表現した。
関連サイト:
8.「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠 - 外務省
「李承晩ライン」は日本の歴史認識に対する審判=韓国で式典 - 聨合ニュース(2014年2月21日閲覧)
新語時事用語辞典とは?
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改正日本輿地路程全図
読み方:かいせいにほんよちろていぜんず
別名:赤水図
水戸藩の地理学者、長久保赤水が1779年に作成した日本地図。北海道(蝦夷地)や小笠原諸島、沖縄などを除く日本全土を描いている。刊本としては、初めて緯線と方角線が記された日本地図だとされている。
「改正日本輿地路程全図」は、1774年に長久保赤水自らが作成した「日本輿地路程全図」の改訂版であり、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の42年前に刊行された。実測した地図ではないことから、伊能忠敬の地図よりも正確性には劣るが、20数年に及ぶ文献調査に基づき作成され、高い完成度を誇っている。この地図は約100年間に8版を数え、明治時代まで庶民の間でも盛んに用いられた。
「改正日本輿地路程全図」には、竹島が当時の「松島」の名で描かれており、日本側の竹島領有を示す最古の地図ともされている。そのことから、日韓両国の間にある竹島問題では、「改正日本輿地路程全図」の内容や証拠能力が争点とされることがある。
韓国の東北アジア歴史財団は、「改正日本輿地路程全図」が私撰の地図であると主張し、証拠能力に乏しいことを指摘したが、島根県は「Web竹島問題研究所」において、長久保赤水が水戸藩の侍講であること、のちに昌平黌の教官となった柴野栗山が製作に関わっていたことなどを挙げて反論した。また、韓国側は竹島が彩色されていないこと、経緯度線の外に描かれていることなどを挙げて、長久保赤水が竹島を日本の領域外と見なしていたことを主張しているが、島根県は赤水の竹島に関する記述が齋藤豊仙の「隠州視聴合紀」に由来し、明確な根拠があることを挙げ、韓国側の主張を「根拠にもならない理屈」と断じた。
関連サイト:
竹島の認知 - 外務省
韓国が知らない10の独島の虚偽 - Web竹島問題研究所(島根県)
別名:赤水図
水戸藩の地理学者、長久保赤水が1779年に作成した日本地図。北海道(蝦夷地)や小笠原諸島、沖縄などを除く日本全土を描いている。刊本としては、初めて緯線と方角線が記された日本地図だとされている。
「改正日本輿地路程全図」は、1774年に長久保赤水自らが作成した「日本輿地路程全図」の改訂版であり、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の42年前に刊行された。実測した地図ではないことから、伊能忠敬の地図よりも正確性には劣るが、20数年に及ぶ文献調査に基づき作成され、高い完成度を誇っている。この地図は約100年間に8版を数え、明治時代まで庶民の間でも盛んに用いられた。
「改正日本輿地路程全図」には、竹島が当時の「松島」の名で描かれており、日本側の竹島領有を示す最古の地図ともされている。そのことから、日韓両国の間にある竹島問題では、「改正日本輿地路程全図」の内容や証拠能力が争点とされることがある。
韓国の東北アジア歴史財団は、「改正日本輿地路程全図」が私撰の地図であると主張し、証拠能力に乏しいことを指摘したが、島根県は「Web竹島問題研究所」において、長久保赤水が水戸藩の侍講であること、のちに昌平黌の教官となった柴野栗山が製作に関わっていたことなどを挙げて反論した。また、韓国側は竹島が彩色されていないこと、経緯度線の外に描かれていることなどを挙げて、長久保赤水が竹島を日本の領域外と見なしていたことを主張しているが、島根県は赤水の竹島に関する記述が齋藤豊仙の「隠州視聴合紀」に由来し、明確な根拠があることを挙げ、韓国側の主張を「根拠にもならない理屈」と断じた。
関連サイト:
竹島の認知 - 外務省
韓国が知らない10の独島の虚偽 - Web竹島問題研究所(島根県)
安龍福
読み方:あんりゅうふく
別名:アン・ヨンポク
別名:安竜福
別名:アンピンシャ
英語:An Yong-bok
17世紀末に2度にわたって日本を訪れた、釜山出身の朝鮮の漁民。日本で、鬱陵島および「于山島」が朝鮮の領土である旨の主張を行った。その証言内容あるいは証言の信憑性は、現代の日韓両国の間にある竹島問題の重要な争点となっている。
安龍福は1693年に、鬱陵島で日本人に捕らえられ、日本に連行された。当時の鬱陵島では、大谷家と村川家が江戸幕府の公認を受けて漁などを行っていたが、朝鮮では鬱陵島への立ち入りが禁止されており(空島政策)、安龍福の鬱陵島における漁は不法行為であった。江戸幕府は安龍福を朝鮮に引き渡すとともに、朝鮮側に鬱陵島への出漁禁止を取るよう要請したが、この出来事がきっかけとなって鬱陵島に関する領土問題が起こり、結果的に江戸幕府は鬱陵島を放棄することとなった(竹島一件)。なお、この時に安龍福は、将軍から「鬱陵島と于山島を朝鮮領とする」旨の書契を受け取ったとしているが、帰国の途、対馬藩で奪われたと主張している。
1696年に、安龍福は密航により、再び日本を訪れた。その目的は、鬱陵島および「于山島」の領有権の主張であったとされる。しかし、鬱陵島の放棄については、その時既に江戸幕府が決定しており、安龍福はそのことを知らなかった。安龍福は鳥取藩主に対して、両島の領有について直談判し、将軍への上訴は失敗したものの、江戸幕府が両島を朝鮮の領土であることを認めたと証言している。
安龍福の証言の中には、明らかな虚言が数多く含まれていることから、発言の信憑性は薄いと考えられている。また、「将軍から書契を受け取った」「鳥取藩主に直談判した」などの重要な事項についても虚言の疑いが強いとされている。当時、釜山の東莱府も、安龍福を「漂風の愚民」であり、「王朝の知る所ではない」と断じている。そもそも、安龍福の言う「于山島」が現在の竹島(独島)であるとは考えられていない。
しかし、安龍福は韓国では国民的英雄として広く知られており、竹島問題に関する韓国側の主張も、安龍福の証言、あるいはそれを基に製作された古地図などに依拠する点が多い。
関連サイト:
韓国が知らない10の独島の虚偽 第5回 - Web竹島問題研究所(島根県)
別名:アン・ヨンポク
別名:安竜福
別名:アンピンシャ
英語:An Yong-bok
17世紀末に2度にわたって日本を訪れた、釜山出身の朝鮮の漁民。日本で、鬱陵島および「于山島」が朝鮮の領土である旨の主張を行った。その証言内容あるいは証言の信憑性は、現代の日韓両国の間にある竹島問題の重要な争点となっている。
安龍福は1693年に、鬱陵島で日本人に捕らえられ、日本に連行された。当時の鬱陵島では、大谷家と村川家が江戸幕府の公認を受けて漁などを行っていたが、朝鮮では鬱陵島への立ち入りが禁止されており(空島政策)、安龍福の鬱陵島における漁は不法行為であった。江戸幕府は安龍福を朝鮮に引き渡すとともに、朝鮮側に鬱陵島への出漁禁止を取るよう要請したが、この出来事がきっかけとなって鬱陵島に関する領土問題が起こり、結果的に江戸幕府は鬱陵島を放棄することとなった(竹島一件)。なお、この時に安龍福は、将軍から「鬱陵島と于山島を朝鮮領とする」旨の書契を受け取ったとしているが、帰国の途、対馬藩で奪われたと主張している。
1696年に、安龍福は密航により、再び日本を訪れた。その目的は、鬱陵島および「于山島」の領有権の主張であったとされる。しかし、鬱陵島の放棄については、その時既に江戸幕府が決定しており、安龍福はそのことを知らなかった。安龍福は鳥取藩主に対して、両島の領有について直談判し、将軍への上訴は失敗したものの、江戸幕府が両島を朝鮮の領土であることを認めたと証言している。
安龍福の証言の中には、明らかな虚言が数多く含まれていることから、発言の信憑性は薄いと考えられている。また、「将軍から書契を受け取った」「鳥取藩主に直談判した」などの重要な事項についても虚言の疑いが強いとされている。当時、釜山の東莱府も、安龍福を「漂風の愚民」であり、「王朝の知る所ではない」と断じている。そもそも、安龍福の言う「于山島」が現在の竹島(独島)であるとは考えられていない。
しかし、安龍福は韓国では国民的英雄として広く知られており、竹島問題に関する韓国側の主張も、安龍福の証言、あるいはそれを基に製作された古地図などに依拠する点が多い。
関連サイト:
韓国が知らない10の独島の虚偽 第5回 - Web竹島問題研究所(島根県)
于山島
読み方:うざんとう
別名:于山
別名:우산도
別名:우산
英語:Usando
韓国の歴史書「太宗実録」などで記述されている島。于山島が現在でいうどの島に相当するのか、あるいは実在の島なのかどうかについては、竹島問題に関連する主要な論点の一つである。しかし、日本側と韓国側で主張に食い違いが見られる。
韓国側の主張によれば、于山島は現在の竹島(独島)と同一の島であり、その主張に従えば、韓国が古くから竹島(独島)を自国の領土として認識していたことになる。しかし、韓国の古地図の多くは于山島を鬱陵島の西や北に描いており、鬱陵島の東南東、約90キロメートルにある竹島(独島)とは位置や面積、形状などが明らかに異なっていた。また、韓国側は「東国文献備考」などの文献を根拠として挙げているが、それらの文献は、近年発見された「輿地志」の記述によると、信頼性に乏しい安龍福の証言に基づくものだと考えられている。
日本側の主張では、「太宗実録」に見られる于山島は架空の島か、あるいは鬱陵島の約4キロメートル東方にある「竹嶼」だとする。「太宗実録」では、于山島に15戸の家、86人の住民がおり、按撫使が竹や芋などを于山島から持ち帰ったとあるが、竹島(独島)の環境には合致しない。
1696年に朝鮮の漁民、安龍福は、日本に密航して鳥取藩に捕らえられた際に、于山島が竹島(独島)と同一の島であり、朝鮮の領土であることを鳥取藩主に直接認めさせたとされている。しかし、2010年に神戸市立博物館で発見された、安龍福の時代の古地図である「江原道図」は、于山島が「子山」として、鬱陵島のすぐ南側に描かれている地図であり、安龍福の主張を覆す史料とされた。
于山島を架空の島とする主張の根拠としては、「太宗実録」で于山島の名が初めて現れた1412年には、既に太宗による鬱陵島の空島政策が行われていたことが挙げられている。当時、鬱陵島の住民は本土に移住するよう求められていたことから、「太宗実録」に証言が掲載された白加勿らは、罪を逃れるために「于山島民」と名乗ったのだと考えられている。
関連サイト:
竹島の認知 - 外務省
韓国が知らない10の独島の虚偽 第2回 - Web竹島問題研究所(島根県)
別名:于山
別名:우산도
別名:우산
英語:Usando
韓国の歴史書「太宗実録」などで記述されている島。于山島が現在でいうどの島に相当するのか、あるいは実在の島なのかどうかについては、竹島問題に関連する主要な論点の一つである。しかし、日本側と韓国側で主張に食い違いが見られる。
韓国側の主張によれば、于山島は現在の竹島(独島)と同一の島であり、その主張に従えば、韓国が古くから竹島(独島)を自国の領土として認識していたことになる。しかし、韓国の古地図の多くは于山島を鬱陵島の西や北に描いており、鬱陵島の東南東、約90キロメートルにある竹島(独島)とは位置や面積、形状などが明らかに異なっていた。また、韓国側は「東国文献備考」などの文献を根拠として挙げているが、それらの文献は、近年発見された「輿地志」の記述によると、信頼性に乏しい安龍福の証言に基づくものだと考えられている。
日本側の主張では、「太宗実録」に見られる于山島は架空の島か、あるいは鬱陵島の約4キロメートル東方にある「竹嶼」だとする。「太宗実録」では、于山島に15戸の家、86人の住民がおり、按撫使が竹や芋などを于山島から持ち帰ったとあるが、竹島(独島)の環境には合致しない。
1696年に朝鮮の漁民、安龍福は、日本に密航して鳥取藩に捕らえられた際に、于山島が竹島(独島)と同一の島であり、朝鮮の領土であることを鳥取藩主に直接認めさせたとされている。しかし、2010年に神戸市立博物館で発見された、安龍福の時代の古地図である「江原道図」は、于山島が「子山」として、鬱陵島のすぐ南側に描かれている地図であり、安龍福の主張を覆す史料とされた。
于山島を架空の島とする主張の根拠としては、「太宗実録」で于山島の名が初めて現れた1412年には、既に太宗による鬱陵島の空島政策が行われていたことが挙げられている。当時、鬱陵島の住民は本土に移住するよう求められていたことから、「太宗実録」に証言が掲載された白加勿らは、罪を逃れるために「于山島民」と名乗ったのだと考えられている。
関連サイト:
竹島の認知 - 外務省
韓国が知らない10の独島の虚偽 第2回 - Web竹島問題研究所(島根県)
レバミピド点眼液
読み方:レバミピドてんがんえき
別名:レバミピド点眼
別名:レバミピド点眼薬
別名:レバミピド懸濁点眼液
別名:ムコスタ点眼液
英語:rebamipide ophthalmic suspension
ドライアイの治療に用いられる点眼液の一つ。日本の大塚製薬株式会社が開発した。
レバミピドはムチン産生を促進したり、粘膜を修復したりする作用を持つ薬剤で、従来は胃炎や胃潰瘍などの治療薬として用いられていた。大塚製薬株式会社は、レバミピドをドライアイ治療に応用する研究を進め、2012年1月に「ムコスタ点眼液」の商品名で発売した。
レバミピド点眼液は、目の角膜および結膜に作用し、涙液中に含まれるムチン量を増加させることで、ドライアイに伴う乾燥やごろごろ感などの不快症状を抑える薬剤である。従来の薬剤ではあまり効き目がなかった、重度のドライアイに特に有効とされている。
2012年7月に米国のアキュセラ社は、レバミピド点眼薬を大塚製薬と共同開発する契約を締結するとともに、米国における臨床第III相試験を開始した。臨床第III相試験は2013年中に終了する予定であったが、主要評価項目の達成に至らなかったことから、2013年9月に共同開発契約が解消され、米国における発売は見送られることとなった。
関連サイト:
ドライアイ治療剤「ムコスタ®点眼液UD2%」 1月5日 新発売 - 大塚製薬株式会社
別名:レバミピド点眼
別名:レバミピド点眼薬
別名:レバミピド懸濁点眼液
別名:ムコスタ点眼液
英語:rebamipide ophthalmic suspension
ドライアイの治療に用いられる点眼液の一つ。日本の大塚製薬株式会社が開発した。
レバミピドはムチン産生を促進したり、粘膜を修復したりする作用を持つ薬剤で、従来は胃炎や胃潰瘍などの治療薬として用いられていた。大塚製薬株式会社は、レバミピドをドライアイ治療に応用する研究を進め、2012年1月に「ムコスタ点眼液」の商品名で発売した。
レバミピド点眼液は、目の角膜および結膜に作用し、涙液中に含まれるムチン量を増加させることで、ドライアイに伴う乾燥やごろごろ感などの不快症状を抑える薬剤である。従来の薬剤ではあまり効き目がなかった、重度のドライアイに特に有効とされている。
2012年7月に米国のアキュセラ社は、レバミピド点眼薬を大塚製薬と共同開発する契約を締結するとともに、米国における臨床第III相試験を開始した。臨床第III相試験は2013年中に終了する予定であったが、主要評価項目の達成に至らなかったことから、2013年9月に共同開発契約が解消され、米国における発売は見送られることとなった。
関連サイト:
ドライアイ治療剤「ムコスタ®点眼液UD2%」 1月5日 新発売 - 大塚製薬株式会社