2014年2月27日木曜日

杉原千畝

読み方:すぎはらちうね
別名:センポ・スギハラ
別名:東洋のシンドラー
別名:日本のシンドラー

1900年生まれの日本の外交官。リトアニアの日本領事館に赴任していた第二次世界大戦当時、約6000人のユダヤ人難民の命を救ったことから、同じくユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーになぞらえ、「東洋のシンドラー(日本のシンドラー)」としても知られている。

杉原千畝は、学生時代から特にロシア語に堪能であり、1926年に書き上げた「ソヴィエト聯邦國民經濟大觀」は外務省に高く評価された。1933年にはソ連と北満州鉄道の譲渡交渉を行い、現在の価格で約4億円ともいわれる大幅な減額を行うことに成功した。

1939年に、杉原千畝はリトアニアのカウナスに開設された日本領事館の職員として赴任した。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が強まると、日本領事館には多数のユダヤ人がビザの発給を求めて訪れたが、当時は日独伊三国同盟の締結直前ということもあり、本国は杉原に対して、ユダヤ人に対するビザ発給に厳格な条件を設ける旨の訓令を言い渡した。しかし、杉原は人道的観点から、本国の命令に背いて独断でビザの発給を行い、多くの難民を亡命させた。この時、杉原が発行したビザは、「命のビザ」として言及されることもある。

戦後、杉原千畝は外務省を依頼退職し、その後は不遇の半生を過ごしたとする説もあるが、杉原に命を救われたユダヤ人の尽力もあり、戦中に行ったビザ発給が偉業として顧みられることとなった。杉原千畝は1985年に、日本人としては唯一、「諸国民の中の正義の人」に選ばれた。「諸国民の中の正義の人」は「ヤド・バシェム賞」ともいい、イスラエルの最高裁判所判事によって、ナチス・ドイツのホロコーストの中で、自らの危険を顧みずにユダヤ人を匿った人々に与えられる称号である。また、2000年に河野洋平外務大臣は、正式に杉原千畝の名誉回復を行った。