2014年2月21日金曜日

于山島

読み方:うざんとう
別名:于山
別名:우산도
別名:우산
英語:Usando

韓国の歴史書「太宗実録」などで記述されている島。于山島が現在でいうどの島に相当するのか、あるいは実在の島なのかどうかについては、竹島問題に関連する主要な論点の一つである。しかし、日本側と韓国側で主張に食い違いが見られる。

韓国側の主張によれば、于山島は現在の竹島(独島)と同一の島であり、その主張に従えば、韓国が古くから竹島(独島)を自国の領土として認識していたことになる。しかし、韓国の古地図の多くは于山島を鬱陵島の西や北に描いており、鬱陵島の東南東、約90キロメートルにある竹島(独島)とは位置や面積、形状などが明らかに異なっていた。また、韓国側は「東国文献備考」などの文献を根拠として挙げているが、それらの文献は、近年発見された「輿地志」の記述によると、信頼性に乏しい安龍福の証言に基づくものだと考えられている。

日本側の主張では、「太宗実録」に見られる于山島は架空の島か、あるいは鬱陵島の約4キロメートル東方にある「竹嶼」だとする。「太宗実録」では、于山島に15戸の家、86人の住民がおり、按撫使が竹や芋などを于山島から持ち帰ったとあるが、竹島(独島)の環境には合致しない。

1696年に朝鮮の漁民、安龍福は、日本に密航して鳥取藩に捕らえられた際に、于山島が竹島(独島)と同一の島であり、朝鮮の領土であることを鳥取藩主に直接認めさせたとされている。しかし、2010年に神戸市立博物館で発見された、安龍福の時代の古地図である「江原道図」は、于山島が「子山」として、鬱陵島のすぐ南側に描かれている地図であり、安龍福の主張を覆す史料とされた。

于山島を架空の島とする主張の根拠としては、「太宗実録」で于山島の名が初めて現れた1412年には、既に太宗による鬱陵島の空島政策が行われていたことが挙げられている。当時、鬱陵島の住民は本土に移住するよう求められていたことから、「太宗実録」に証言が掲載された白加勿らは、罪を逃れるために「于山島民」と名乗ったのだと考えられている。

関連サイト:
竹島の認知 - 外務省
韓国が知らない10の独島の虚偽 第2回 - Web竹島問題研究所(島根県)