2014年2月24日月曜日

竹島一件

読み方:たけしまいっけん
別名:竹嶋一件
別名:元禄竹島一件
別名:元禄竹嶋一件

江戸時代の元禄年間に、江戸幕府と李氏朝鮮の間で発生した、竹島(現在の鬱陵島)を巡る領土問題。結果的に、幕府は竹島(鬱陵島)への日本人の渡航を禁じ、事実上領有権を放棄した。幕府はこの際、松島(現在の竹島)については何ら言及していないが、現代の日韓両国間の竹島問題における韓国側の主張として、幕府が竹島一件で松島(現在の竹島)の領有権も放棄したとする主張が見られる。

事件当時の竹島(現在の鬱陵島)では、大谷家と村川家が70年以上、幕府公認の下で漁を行っていたが、1692年に渡航した際、53名の朝鮮人と遭遇した。なお、当時の朝鮮では竹島(鬱陵島)への渡航は禁止されており(空島政策)、朝鮮人は密漁を行っていたことになる。1693年に幕府は、安龍福など朝鮮人の一部を捕らえて本国で取り調べるとともに、鬱陵島に朝鮮人が来ないよう、朝鮮に対して申し入れを行った。しかし、朝鮮側は竹島(鬱陵島)を自国の領土だとして反論し、江戸幕府の中でも、空島になっていたとはいえ竹島(鬱陵島)は朝鮮領だとする意見が大勢を占めるようになった。その結果、1696年に幕府は、竹島(鬱陵島)への渡航禁止を決定し、その旨を朝鮮側に伝達した。

なお、竹島一件の後にあたる1836年頃に、会津屋八右衛門や浜田藩の有力者が結託して、竹島(鬱陵島)周辺で密貿易を行っていたことが発覚した「竹島事件(天保竹島一件)」が発生した。この事件における、浜田藩勘定方の橋本三兵衛の証言からは、幕府が竹島一件後も、松島(現在の竹島)への渡航を禁止していなかったことが分かり、松島(現在の竹島)が日本の領土として認識されていたことが示唆されている。

また、竹島一件の発端を作った安龍福は、1696年に再度日本を訪れ、竹島(鬱陵島)と「于山島」の領有権を主張しているが、この時既に幕府は、竹島(鬱陵島)への渡航禁止を命じており、また「于山島」が現在の竹島と同一の島だとは考えられていない。

1877年に明治政府は、竹島一件における江戸幕府の立場を踏襲し、「竹島外一島」を「日本と無関係」とする太政官指令を公布した。韓国側は「外一島」を松島(現在の竹島)として捉え、明治政府による松島(竹島)の領有権放棄の根拠として用いている。一方、島根県竹島問題研究顧問の杉原隆は、複数の資料を基に、「竹島外一島」が「竹島とも松島とも呼ばれている鬱陵島」を意味するとする解釈を支持している。

関連サイト:
「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」第9回 元禄竹島一件と石見銀山代官 - Web竹島問題研究所(島根県)